2021/10/07
昔テレビでも見たのですけど、そもそも温帯気候で、どんぐりなども豊富で、山の幸、海の幸も豊富だった縄文の人々が、稲作農業に魅力を感じたのか?という疑問があります。
農業がもたらすのは、過剰な生産物です。
どんぐりはあく抜きをすれば食べられます。
普通に生活していた縄文の人々が、過剰な生産物を生む農業に魅力を感じたのか疑問です。
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ヤマト建国は縄文への揺り戻し運動だった!? 弥生社会の九州勢力に勝てた理由
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2021年10月07日 公開
関裕二(歴史作家)
1.ヤマト建国は縄文への揺り戻し運動だった!? 弥生社会の九州勢力に勝てた理由
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2021年10月07日 公開
関裕二(歴史作家)
ヤマト王権は西の勢力が打ち立てた――長い間、日本の史学界ではそう考えられてきた。
しかし、纒向遺跡の発掘調査と研究によって、その常識は打ち破られつつある。
ヤマト建国の背景には、東の文化(縄文)が色濃くあることがわかってきたのである。
※本稿は、関裕二著『「縄文」の新常識を知れば日本の謎が解ける』(PHP文庫)を一部抜粋・編集したものです。
何もなかった場所に巨大人工都市が出現
8世紀の正史『日本書紀』は、ヤマト建国を「天上界(高天原)の神々が葦原中国を征服し、のちに神の末裔の神日本磐余彦尊(神武天皇)が九州から東に移って成し遂げられた」と説明している。
しかも、文明は西から東に移ったと長い間信じられていたから、朝鮮半島から渡ってきた人びとが九州で地盤を固めて、のちにヤマトを征服したと考えられていたのだ。
しかし、考古学が多くの遺跡を発掘していくと、このような単純な建国の物語は、描けないことがわかってきた。
ヤマト建国は三輪山麓の扇状地・纒向遺跡(奈良県桜井市)で始まった。
3世紀初頭、それまで何もなかった場所に巨大人工都市が出現したのだ。
各地から土器が集まり、前方後円墳が誕生し、この独自の埋葬文化を各地の首長が受け入れ、造営した(造営の許可をヤマト政権が出したのだろう)。
ここに、埋葬文化を共有するゆるやかな連合体(ネットワークというべきか)が生まれたのだ。
纒向遺跡と前方後円墳の出現が、ヤマト建国を象徴していたし、纒向が日本列島(すべてではない)の中心になったのだ。
纒向遺跡の特徴はいくつもある。まず第一に農耕の痕跡がなく、政治と宗教に特化されていたこと、第二に倭国大乱のあと、戦争を収拾する時期に出現したのに、なぜか防御のための施設が見当たらない。
ヤマト建国に九州は無関係
纒向の特徴の第三は、各地から土器(外来系土器)が集まってきていたことだ。
外来系の土器は全体の3割弱を占める。内訳は東海49%、山陰・北陸17%、河内10%、吉備7%、関東5五%、近江5%、西部瀬戸内3%、播磨3%、紀伊1%で、無視できないのはこの時代もっとも栄えていた北部九州の土器がほとんど出土していないことなのだ。
「北部九州の邪馬台国が東に移動してヤマトは建国された」という考えは、もはや通用しないのである。
それどころか、ヤマト建国前後の人の流れは、かつての常識を嘲笑うかのように、東から西なのだ。
ヤマトや近畿地方の人びとが、大挙して北部九州に押し寄せている。
これは考古学が示す客観的な事実だ。ここに大きな謎が横たわる。
弥生時代後期の北部九州は、鉄器の保有量で、他の地域を圧倒していた。
この時代の鉄は朝鮮半島南部(のちの伽耶の地域)が主な産地だった。
倭人だけでなく、周辺の人びとが鉄を求めて群れ集まっていたことは、中国の歴史書に記録されている。
そして、ヤマトの発展を恐れた北部九州は、鉄を東に回さない策に出たようだ。
出雲や吉備と手を組み、関門海峡と明石海峡を封鎖した気配がある。
そのため、近畿地方は鉄の過疎地帯となった。
近畿地方は困窮したが救世主が現れる。日本海側の但馬や丹波(これをタニハと呼んでおく)が鉄を含めた先進の文物を、独自のルートを使い、近畿地方、近江、東海に流し始めたのだ。
一帯は次第に富を蓄え、その後ヤマトに集結した。
これが、纒向遺跡誕生の筋書きであり、あわてた吉備と出雲は北部九州との盟約を反故にして、あわてて纒向にやってきたのだ。
北部九州の土器がヤマトにやってこなかったのは、むしろ当然のことだった。
そしてヤマト連合は、大挙して北部九州に押しかけたわけである。
2.縄文への「揺り戻し運動」
史学者の多くは、邪馬台国論争にばかり気をとられているから、近江と東海の動きを見誤っていたのだ。
ヤマト建国のヒントは、目の前にぶら下がっていたのに、「邪馬台国の敵・狗奴国は近江や東海」という、誤った見識が邪魔をしていたのだ。
そして、ここがもっとも大切なところなのだが、ヤマトの纒向に集まってきた地域が、「ほぼ銅鐸文化圏」だったのである。彼らは、銅鐸の中に、縄文的な意匠を描いていた。
ここを無視することはできなくなってくる。
銅鐸文化圏で、銅鐸はどんどん大きくなり、鳴らす道具から、観る道具(第二の道具)に化けている。
その理由は、祭器を強い権力者に独占させないためだという指摘がある。
北部九州の富を蓄えた強い王(首長)たちは、青銅器で作った武器を私有し、墓に埋納した。
威信財を権力者が誇示し、身分の違いを見せつけていたのだ。
これに対し畿内から東側の地域では、集落のみなで祭器を用い、比較的平等な社会を構築しようとしていたのだ。
それは、彼らが縄文的な発想を継承していたからだろう。
ヤマトの王が実権を伴わない祭司王となったのも、銅鐸文化圏の人びとが中心となってヤマトを建国したからと考えると合点がゆく。
強い権力者を彼らは求めていなかったのである。
だからこそ北部九州の富を蓄えた強い王たちに逆らったのだろう。
ヤマト建国とは「縄文的な社会への揺り戻し運動」だったのではないかと思えてくる。
主導したのは、もちろん、銅鐸文化圏の人びとである。
「ありえない」と、反発を受けそうだが、考古学者はすでにそう考えているのではないかと思える節がある。
縄文時代を通じて、西日本は東日本に比べて人口が少なかったが、寒冷化した縄文後期は、西日本の人口が増えている。
一部は、東日本から人の流入があったようだ。人口密集地帯だった関東から、北陸・東海、関西、中国、四国、九州へと人の流れがあったことはすでに触れている。
やがて弥生時代になると、西側から水田稲作の文化が流れ込み、弥生化が始まる。
また、弥生前期を代表する遠賀川式土器が盛行していったのだ。
ところが、紀元前4~3世紀からあとの瀬戸内や近畿では、文様を排した遠賀川系の土器に代わって、土器に櫛などの道具を用いて文様を刻む風習が戻ってきたのだ。
これが、弥生時代中期後半の紀元前1世紀ごろまで続く。
縄文中期の全盛期の土器に似ているのだ。
弥生前期の終わりごろから、分銅形土製品(フィギュア)が瀬戸内海を中心に登場する。
これは、縄文時代晩期末に西日本で作られた土偶が起源だ。やはりこれも、縄文回帰現象といえる。
しかも、瀬戸内や近畿では、武器に打製石器が流行している。
銅鐸も作られるようになるが、九州の銅剣や銅矛のように、富を蓄えた者のための武器を用意することはなく、青銅器が個人格差や地域間の序列を表すことはなかった。
これを松木武彦は「社会の構造や本質における縄文との共通性に根ざしたもの」と考える(『日本の歴史一旧石器・縄文・弥生・古墳時代列島創世記』小学館)。
これまでは、縄文時代から弥生時代へと、直線的に時代は移り変わっていったと信じられてきたが、瀬戸内や近畿、東海の社会では、タテ・ヨコ方向の序列が人工物に表現されず、土器の飾りやフィギュアが重視されていたといい、さらに次のように述べる。
同じ弥生時代の北部九州社会よりも、縄文時代中期の東日本の社会に構造がはるかによく似ていると分析することができる。
(中略)はるか中国に発した「文明」の遺伝子は、北部九州を経てこれらの地域にも浸透してはきたが、基本的な文化の形質そのものを変えてしまうには至らなかったということである(前掲書)
まさにその通りで、これまでの歴史観はここに大きく崩れていくのである。
ヤマト建国のカラクリ
ヤマト建国の直前、タニハ(但馬や丹波)が、西側(具体的には北部九州と出雲)からの圧力をはね返し、さらに地の利を活かし、朝鮮半島と直接交渉を持ち、文物を近畿や近江、東海に流していた事実も無視できない。
縄文的な発想を抱きつつ、西の「鉄を独占して東に圧力をかける悪いヤツら(いいすぎか?)」に対抗するために、タニハは銅鐸文化圏の人びとに働きかけ、ヤマトに拠点を造るようけしかけ、一方で播磨に侵攻し、明石海峡の制海権を奪いにいったのではなかったか。
鉄を持たない東が勝つには「団結すること」「ヤマトに集まること」「明石海峡を奪うこと」の三つの条件が必要だったし、これをやれば、出雲と吉備は寝返ってくるという読みがあったのだろう。
そして、連合体の中心となる纒向が奈良盆地の東南の隅に置かれたところに、大きな意味が隠されていると思う。
すでに縄文時代に「東」と奈良盆地は交流があって、その陸路の出入り口が纒向遺跡の南側だった。
最古の市場・海柘榴市が造られたのは、まさに東西交流の場でもあったからだ。
纒向は「東側から来た人間がヤマトを支配するにはもっとも都合のよい場所」であり、いまだはっきりと固まっていない新政権のもとで、いざというときは東側の山や高台に陣を構えることも可能だったし、東に逃れ、あるいは東からの援軍を呼び込める場所だったのである。
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