2005/02/21
BC級戦犯の切迫した心 最期の言葉写したノート
(B、C級戦犯は、靖国神社に祭られています!北京共産党は、A級の次は、B、C級を必ずや、問題提起するでしょう!!)
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太平洋戦争後、シンガポールのチャンギー刑務所に収容、処刑されたBC級戦犯らの辞世の句や遺詠を書き写した古いノートが見つかり、長野市安茂里差出の工芸家、鶴見(つるみ)憲明さん(72)が持ち主を探している。昨年末、千葉県の知人から譲り受けた。戦後間もなく書かれたとみられるが、ノートの由来は不明。鶴見さんは「遺族が知らない内容も含まれているかもしれない」と気にかけ、遺族らもノートを引き受けて保管したい考えだ。
ノートは敗戦直後に流通したA5判の中学生用で、表紙に「チャンギー刑務所戦犯者 遺作辞世集」、最初のページに「昭和二十二年四月以前 昭南戦犯昇天者 辭(辞)世並遺作集 チャンギー刑務所Dホール蒐集(しゅうしゅう)」と書かれている。続いて、この刑務所に収容され、処刑や病気などで死亡したとされる百人以上のBC級戦犯のうち、長野県出身者三人を含む五十六人の辞世の句や遺詠の一部をそれぞれ抜き出し、階級順に記している。
「義の為に責められたるもの 天国その人のものなりとあり 国敗れ身は刑死すと雖(いえど)も何ら憾なし」「さすらひの日毎夜毎(ひごとよごと)に思ふかな 散り行く人の胸や如何にと」(憲兵中尉)「天に愧(は)ぢず 親に背かず 今笑って 死地につきます」(主計中尉)―。いずれも、当時の切迫した内心を読み取ることができる。
ノートは一九八九年に死去した私大教授(中国哲学)の家族が、教授の大量の蔵書を整理する中で見つけ、親交のある鶴見さんに他の書物とともに贈った。ノートの字体は教授のものと異なり、いつ、誰が教授に渡したか不明。家族はノートの処分も任せているが、鶴見さんは「戦後六十年目に私の手元に来たのも何かの縁」と、持ち主を探すことにした。
この事情を、東京都大田区にあるチャンギー殉難者慰霊碑で法要を毎年開いている実行委員会事務局の田沢徹さん(73)=川崎市=が知り、実行委でノートの保管を検討し始めた。田沢さんは、処刑死した父親が長野県出身。「個人の善意で保管されたこうした貴重な資料が年とともに多数失われているのが現状」と憂い、持ち主が見つからない場合、保管先を探すつもりという。
田沢さんは三月、長野市を訪れる予定。「ぜひノートを見たい。こうした資料の保管は民間では限界があると思う。公的な保管先などがあればいいのだが」と話している。(〓は雨カンムリに「鶴」)
米英二国に宣戦せるゆえんもまた、実に帝国の自存と、東亜の安定とを庶幾するに出て、他国の主権を排し、領土を侵すがごときは、もとより朕が志にあらず。・・・これに加え、敵は新たに残虐なる爆弾を使用して無辜を殺傷し、・・・ついに我が民族の滅亡を招来するのみならず、ひいて人類の文明をも破却すべし。・・・朕は帝国と共に終始、東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるをえず。・・・、爾臣民の哀情も朕、善く之を知る。しかれども朕は時運のおもむく所、耐ヘ難きを耐ヘ忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かんと欲す。・・・朕はここに国体を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し、常に爾臣民と共に在り。・・・ちかって国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざることを期すべし!爾臣民それよく朕が意を体せよ!