2005/06/05
今日、テレビで久保純さんの出ている番組をみていたら、外国人コメンテーターが、米国で国家機密が30年経ってから公開されたことに触れて、「日本やアメリカは民主主義国家だと言われているが、国家機密は一般人には決して公開されない、事実として存在しても一般人には伝えられない事実は山ほどある」と言って、司会者を困らせていた。
しかし、ジュリアはコメンテタ氏の発言こそ現実的であり、全ての報道は写真のようなものである、と考えている。要するに報道は恣意的であり、フィクションなのだ!
それはミャンマーの軍事政権批判が、ミャンマー人の意思と反して行われているのと同様、報道していいニュースと、報道してはいけないニュースがあり、現場の記者が特種をゲットしても、デスクの段階で、報道禁止のフィルターがかけられてしまうのである。
例えば、アイヌ人が日本人にどんな仕打ちをされたか、あるいは、どうやってハワイ王国はアメリカに占領されたか、その他、衆人を過度に刺激する内容の報道は、テレビの報道番組では報道されない。報道番組は、金になる、当たり障りのないニュースしか報道しないのだ!現に、あれ程熱心に追求されていたNHKと朝日新聞の対立は、今は一顧だにされてない、あるいは報道談合されているのか、金にならないのか、全く報道されていないではないか!人のうわさも75日、と言うが、報道番組は、金になって、衆人を刺激しない、フィルターを通した内容のニュースしか報道しないのだ!!!
こんなことは言うまでもないと笑う声が聞こえるが、恥ずかしながらジュリアの国立大卒の友人は、「報道はフィクションだ」というジュリアのことを、統合失調の被害妄想というのである!写真は実態がある物を写すが、被写体は選択され、照度、被写界深度等によって、どのようにでも撮れ、またトリミングもされる。
読者諸君はジュリアの報道論を妄言と取るか、解りきったことを、と笑うか、どちらでしょうか???