2021/03/31 |
安倍晋三、菅義偉、小泉進次郎…なぜ日本人はかくも小粒になったのか
【福田和也】BEST TIMES
.01 小泉進次郎環境大臣。記者会見でのもったいぶった発言が、いつも国民を驚かせ楽しませていると評判に。
メディアが重宝がるのは当然かもしれない。
平成時代に首相として誕生した小泉純一郎氏。全盛期の勢いは凄まじかった。
その後、安倍晋三氏は第2次政権以降、在任日数では憲政史上最長を記録。
彼らが政権在任中に成した改革の内実とはいかなるものだったか。
国民は何を得て、何を失ってきたのか。そしていまは小泉進次郎環境大臣の言葉に象徴される「言葉の軽さ」。
中身のない話をじつに勿体ぶってもっともらしく語るその「文体」に国民はもうすでに気づいている。
■戦後、わが国は人物を育てようとしてきたか
大きい人がいなくなりました。
人物というべき人がいない。
日本中、どこを探しても。
一体全体なぜ、人材がいなくなってしまったのか。
その原因はいくつもあるでしょうが、一番の理由は、育てて来なかったから、明確な意識をもって育てようとしてこなかったからにほかなりません。
人物を、人材を育てようとしてこなかった。
勉強のできる人、健康な人、平和を愛する人は育ててきたけれども、人格を陶冶(とうや)するとか、心魂を鍛えるといった事を、まったく埒(らち)の外に置いてきた。
その、戦後教育の結果が、このざまです。
政界、官界、財界、どこを見回しても人物というほどの代物はいないではないですか。
言論界も同じようなものです。
わが国から、人材というほどの存在が、きれいさっぱり払底(ふってい)してしまったわけです。
国の借金が一千兆円、などという話を聞くと暗澹(あんたん)としはしますけれど、それでも人がいないという事に比べればたいした事がありません。
いくら金があったって、人がいなければどうしようもないからです。
バブル期以来、どれだけのお金を日本人が無駄に使ってきたか。
みんな人を得なかったからではありませんか。
人材は、何よりも大事なものです。
お金がなくたって、国は、企業は立ちゆくけれど、人がいなければ、どうしようもありません。
人がいれば、金がなくたってなんとかなるのです。
幕末、外交に失敗して諸外国からいいように賠償金をむしりとられ、そのうえ国際経済のルールをしらないために大量の正貨が流出してしまって経済危機をむかえた日本が、自立できたのも人物がいたからです。
封建体制を打ち壊し、凄惨(せいさん)な内戦をくり広げたうえに、むやみと急進的な改革をほどこしたにもかかわらず、国が四分五裂にならなかったのは、人がいたからでしょう。
薩長のみならず、日本全国から澎湃(ほうはい)と人材が現れて、手を携え、あるいは角逐(かくちく)しながら仕事をしたからでしょう。
たしかに泥仕合もありました。内戦もあった。醜い政争もあればとてつもない不正もあった、理不尽きわまる収奪もあったでしょう。
にもかかわらず、明治国家はなんとかなった。なんとかどころか、極東の小国が列強に伍するまでになったのです。
明治ばかりではありません。大正・昭和世代の日本人も、実によくやった。
たしかに先の大戦は、大しくじりでした。
内外で多くの人命が失われたのは、痛恨の極みではありましたが、しかし敗戦の瓦礫(がれき)のなかから、世界一と云われた経済大国を作りあげたのです。
もちろん明治以来の蓄積があってのことですが、それにしてもこれは、とてつもない快挙ではないでしょうか。
.02 戦時体制を担った重鎮たちが追放されて、あとを担った、「三等重役」と揶揄(やゆ)された経営者たち。
陸軍海軍から放りだされて路頭に迷い、企業戦士となった若い将校たち。
占領軍の理不尽な規制と、社会主義・共産主義の荒波に揉まれながら戦後の混乱を収拾した官僚たち。
政治家たちだってたいしたものでした。一度は引退したロートル外交官の吉田茂も、巣鴨プリズン帰りの岸信介も、政界の裏も表も知り尽くした三木武吉(ぶきち)も、死力を尽くして国家、国民のために働きました。
企業家だってそうです。松下幸之助だって本田宗一郎だって、盛田昭夫だって、ちっちゃな町工場から、世界企業を作りあげたではないですか。
今、中国の、韓国の、インドやシンガポールの企業が世界市場に進出するようになったのも、みんな昭和の日本を見倣ったからです。
アジアでも、繁栄した産業国家を樹立し得ると、わが国が身を以て示したからです。
もちろん、その偉業は国民一人一人が生活の、社会の再建のために死力を尽くして働いたから成し遂げられたものですが。
いずれにしろ、昭和の後期まで、日本には人物といえるような存在が、ふんだんにいたのです。
けれど、今はどうでしょうか。
優れた人はいるでしょう。
専門知に秀でた人もたくさんいるでしょう。
商才に秀でた人も、数えきれないほどいるでしょう。
人あたりのいい、感じのよい人もいるでしょう。
けれど、誠に残念なことに、人物と呼べるほどの人はいない。
みな才子なのです。
小利口で、目端がきいて、気の利いた事もいえる。場合によっては、大物ぶってみるほどの技すらもっているでしょう。
良心的で、真面目で人間愛に満ちている。
けれども、到底人物とはいえない。
小粒な、おさまりのいい、メディアが重宝がるだけの存在にすぎない。
深みもなければ、重みもない。
要領だけは滅法よく、情報技術に通じている。
そういった小粒な才子は、いくらでもいるけれど、人物と云い得るほどの存在は、まったくいないのです。
たしかに、小泉純一郎元総理のような、一陣の嵐を巻き起こした政治家はいました。
彼の全盛期の勢いは、凄まじかった。
けれども、一体何を彼がなしたのか。
その改革なるものの内実を問う事は、とりあえず私の任ではありません。
けれど、あれが狂騒以外の何ものでもなかった、という事は断言できます。
彼が非常に優れたアジテーターであった事はたしかでしょう。
でもそれだけでした。まったくの空っぽでしかなかった。
スローガンにも至らない、短い言葉ーーワン・フレーズーーをつなぎ、叫ぶことはしたけれど、それきりでした。それ以外の何もなかった。
その単純さ、無内容さに、国民は歓呼したのです。
.03 小泉元総理が、ある種の際だった才をもっていた事は、確かでしょう。
貪欲なマスメディアーーその欲深さはまた、日本国民全体のものであることは間違いありませんーーを逆手にとり、彼らの求めるものを与える代わりに手玉にとった手際は、見事としか云い様がありませんでした。
でもそれだけの事です。
政治闘争は、手段を選ばないというのは、洋の東西を問わない鉄則であるとはいえ、「刺客」と称するインスタント候補を出馬させて、反対派を浴びせ倒そうとする手口は、ある意味で議会政治そのものの自己否定に他ならないものでした。
そして、そこまでして一体、国民は何を得たのか。
あやしげな郵便会社だけではないですか。
その「教訓」が、選挙民を多少とも賢明にしたと信じたいのですが。
けれども、あの選挙ほど、現在の日本人の虚無を、何の信念も、確信も持たない様を示した事件はなかったと思います。
そして私たちは、いまだその虚無を、克服していない。
才人はいるが人物がいない。
キャラクターがあっても人格がない。
儲け話はあっても志はない。
演出と自己陶酔があるだけで、本当の感動はない。
幕が引かれれば自分が熱狂していたことすら忘れてしまい、狐につままれたような心持ちになるのです。
こうした状況は、一朝一夕にはなおらないでしょう。
まだまだ、続くと考えなければなりません。
無意味な空騒ぎを何度も繰り返し、さらに繰り返させる事になるでしょう。
なぜこんな事になったのか。
日本から人物が払底して、小物ばかりになったのはなぜなのか。
この事を、しっかり考えないかぎり、人物らしい人物は出てこないのではないでしょうか。
いかにして、日本人はかくも小粒になったのか。
その理由と本質を考える事が、今、一番、重要な事ではないか。
私は、そう思っております。
※「なぜ日本人はかくも小粒になったのか」の理由については次回に続く
(『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』より本文一部抜粋)